ポアゾン [ordinary day(日常)]
今日気づいたこと② [ordinary day(日常)]
ドラマを見ていて思った。
「なんでドラマの中では次々といろんなことが起きるのだろう?」
そりゃそうでなきゃあ面白くないもん。
虚構の世界だから、さまざまな事件が起きて、主人公の運命がどんどん変わっていって、
だから視聴者はいったいどうなっていくんだろうってもっと見たくなるのさ。
……そうだよねー。
でも、ちょっと思ったんだ。
ドラマを見たり小説を読んでいる私たちは、主人公の視点だけじゃなく、他の登場人物の視点だったり、時には神のようなすべてを知っている者の視点で見ているから、全体のことがわかるんだし、主人公の運命のすべてを知っている。
だけど、お話の中の主人公は、実は自分のことしかわかっていないから、運命に翻弄されてしまうわけでしょ?
現実に戻ってみて。
私が見ている事柄は、自分しか知らないし、逆に他人が見ていること、ましてや神様が知っていることなんて全く知らない。
いまなにごともなく、なんの面白い変化もなく生活していると思っている私。
だが、実際には友人の誰かが私のことを好きだと思っていたり、
会社の誰かが、私を憎んでいて陥れてやろうと考えていたり、
まったく無関係な何かが、ほんの偶然私に接近してきて危害を加える流れになっていたり、
実は私の知らないところでいろんなことが起きていて、
だけど私はそれらのすべてを知らないのだと考えたら?
すべての事柄が終ってしまったあとで、誰かがことのすべてを調査してその因果関係をつなぎ合わせたとしたら?
あるいはドラマに負けないような恐ろしい物語りになるのかもしれないじゃない。
私自身は何も知らずに死んでしまったとしても、その死にまつわる出来事が実はあって複雑に絡んでいたのだとしたら?
妄想?
もう!そう、かも知れないけれども、妄想とも言い切れないような気がしない?
了
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今日気づいたこと① [ordinary day(日常)]
ドラマや映画、小説や有名人ゴシップ。
そんな他人の物語りを、なんで私たちは見たがる、読みたがるのだろう。
とりわけよくできたお話には身も心ものめり込んでしまって感情移入。
まるで自分のことのようにドキドキしたり、腹を立てたり、涙したり。
いやいや人間はそういうのが好きなんですよ。
そう言われてしまうとそれで終わってしまうんですけどね。
物語りを自分自身に投影して、つまり疑似体験することによって学習してるんだよ。
ということは、物語りはマニュアルのようなもので、今後生きていくための処世術を学んでいる?
ううーん、そういう側面もあるかもしれないけど。
だけどだったらもっと卑近な物語にしか興味がわかないのでは?
殺人事件とか、海外の政治モノとか、そういうのってとても自分の処世術には合わないのでは? とか思っちゃう。
好奇心。
そう、人は知りたいのだ。自分が知らないことを何でも知りたい。
宇宙がどうなっているのか、世界にはどんなところがあるのか、海にはどんな生物が棲んでいるのか、
そして、他人がどんなふうに暮らしているのか。
だから芸能人のゴシップなんか大好きだし、ご近所や社内の噂話なんてもっと大好き。
人間には好奇心があるから新しいことを学び、発見し、発明して進歩してきた。
いやいや、発見、発明に好奇心が必要なことはわかるけれども、他人の生活をのぞき見することは進歩と関係ある?
うーん、関係ないけど、とにかく好奇心があるためになんでも知りたがる。
知りたがる本性を満たすために、自分が知らない物語りなんかを求める。
でもさ、物語りって、全部嘘っぱちじゃない。
物語りに謎が隠されていて、それを知ったところで、全部作り話。
なんら宇宙の真理を解き明かすものでもない。
なのに知りたがるから、作家は嘘っぱち(空想)の物語りを創って提供するのだ。
知らないことを知りたがる、好奇心は人間の本性。
ってことはつまり、結局
「そういうのが好きなんですよ、私たちは」
ということに尽きるのかなぁ。
了
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第七百五十四話_short 大切なこと [ordinary day(日常)]
「なぁ、俺たちにとっていちばん大切なことって、なんだと思ってる?」
亜理紗は牛蒡の千切りに取り掛かっていたのだが、その手を止めることなく切り続けた。俊彦がきんぴらが食べたいというので、得意料理の一つであるきんぴら牛蒡だが、より繊細な味にしたいからと細かい千切りに挑戦していたのだ。
「聞こえた? 聞こえてる?」
俊彦はスープの鍋をかきまぜながらもう一度聞いた。亜理紗はなにかに夢中になると何も耳に入らなくなることがあるからだ。
「え? なに? 大切なこと? なによ、藪から棒に」
俊彦はちょっとドキッとした。それがどんなことであろうと、邪魔をされて怒り出したことが亜理紗には何度もあるからだ。そんなことで起こらなくてもいいだろうと思うのだが、気分を害されて起こらない方がおかしいというのが亜理紗の言い分だった。
食事の準備はおおむね亜理紗の仕事ということになっているが、気が向いたときには俊彦も一緒になって作る。主導権は亜理紗にあるのだけれども、そうしておいた方がなにかと楽だからと俊彦は思っている。
「藪から棒っていうか、猫に小判っていうか……」
ちょっと生まれた緊張感をほぐそうと、俊彦はなにか冗談を言おうとしたのだが、どうもうまくいかなかった。
「ほら、たとえばいまみたいに、些細なことでイラッとすることがあるだろう?」
あんまりずけずけと言い放つとまずい結果になるので、俊彦はできるだけやわらかい口調で言ったつもりなのだが。
「いま? 誰かイラッとなんかした? そういうことって……よくある?」
わかって言っているのか、あるいは本当に思い当たらないのか、十年連れ添ったいまでも、亜理紗はちょっとつかみづらいところがある。 それに、おおよそ感情的になるのは亜理紗なんだけれども、感情を露わに怒り出した原因を訊ねると、たいていはなんだったかわからないような些細なことなのだ。
「いや、よくあるっていうか、ほら、俺たち、時々喧嘩するじゃない」
「ああ~喧嘩ねえ。するわよねぇ」
喧嘩といってもたいていは亜理紗がひとり怒り出して、俊彦はただおろおろするだけのことなのだが。
「そりゃあ私だって不機嫌なときだってあるわよ~それでなに?」
「だからさ、亜理紗が不機嫌になってしまうことがあるっていうのはわかるけれども、それって大切なことなんだろうか? もっと大切なことがあるんじゃあないかと、俺は思うんだけど」
牛蒡を切る手が止まった。亜理紗は包丁を右手に握ったまま俊彦の方に向き直った。
「あら? 自分の感情以上に大切なものってあるのかしら? 私はまずは心安らかであることが大事だと思ってるわ」
自分の気持ちが安らかでありたいと願うのは俺だって同じだ。だがその気持ちが乱されたから怒るというのなら、そのときの俺の心はどうなるんだ? 二人揃って心安らかでいたいじゃないか。
俊彦はそう思ったけれども口には出さなかった。女王様の心を一番に考えておかないと大変なことになってしまうかもしれないからだ。
「そうだな。いちばん大切なこと、それは亜理紗の心が安らかであることだよね」
そう言うしかなかった。
了
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第七百四十三話_short パパのお仕事 [ordinary day(日常)]
「パパ、カイサでどんなお仕事しているのぉ?」
三歳になる息子に聞かれて私は胸を張って答えた。
「パパはね、機械のネジや部品を売っているんだよ」
息子は理解したのかどうかわからないが満足そうに「ふぅん」と頷いた。
二十年後。
「親父、最近どんな仕事をしてるの?」
会社に入ったばかりの息子が、父親の仕事に少し興味を持ったようだ。私はどう説明したものかと迷いながら答えた。
「仕事なぁ……壊れた機械のネジを外したり、つけたり……そんな仕事かな」
定年までまだ十年近くあるというのに、私はいま、追い出し部屋と渾名がつけられた地下倉庫でまったく意味のないことをやらされているのだ。
息子は理解したのかどうかわからないが、興味なさげに「ふぅん」と頷いた。
了
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第七百二十話_short 村上春樹の憂鬱 [ordinary day(日常)]
10月8日。
今年もまた憂鬱な日がやってきた。
昨日、一昨日と日本人のノーベル賞受賞が決まり、そういう意味では今年は一段と嫌な感じがするのだ。
「別にそのような賞を取ろうとか考えてないし、だいたいマスコミが書籍の販売のために騒いでいるだけなんじゃあないですか?」
私はあえて興味なさそうにそう言ってやったのだが、本心では一層早く受賞が決まればこのような騒ぎはもう二度と起こらないのにと思っていた。
「それにしてもねえ、毎年毎年村上春樹が受賞するに違いないってファンたちはみんなそう思ってますよ」
出版社の人間だという男が品物を受け取りながら言った。
「だから、そんなこと知らんがな。受賞なら受賞とさっさと決まってくれよ」
つい本音を言ってしまうと、男はしめたとばかりににたりとして「そうですよねー」と言った。
世の中には同姓同名で恥ずかしい思いをしている人間は結構いるというが、私もその一人だ。親が二人揃ってハルキストだなんて、しかも村上の姓に生まれたからこんな目に遭うんだな。本物の春樹さん、どうか早く受賞してくださいな。
私は出版社の男にお釣りを渡しながら言った。
「八百屋の村上商店の店主が春樹だなんてね、似合いませんわね」
了
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第七百十九話_short ラッキー・ウェイ・トゥー・ヘブン [ordinary day(日常)]
ピリポロポロン!
携帯電話のメール通知音が鳴った。
うっかりうたた寝をしていたのだが、その音に目を覚まして時計を見ると深夜零時を過ぎていた。
なんだろう? こんな時間に? 迷惑メールか……いや、もしや?
携帯を開いてみると、案の定隣のフリオさんからのメールだった。ドキッと心臓が鳴る。
数日前から、今日か明日かと日延ばしになっていたことに決着がついたのだ。
”先ほど、23時五十分、天国に召されました”
メールには簡略にそう書かれていた。
ついにそうなったのか。ようやく落ち着いたなという安堵感と、来るべき時が来たのだという悲しみが同時にやってきて、感情は差し引きゼロとなって宙ぶらりんな感じがした。
「隣に行こう!」
同室の有希さんが言った。
パジャマに着替えていたところを急いで外着に着替えてマンションを出る。深夜に外出するというのはなんだか不思議な感覚だ。外出と言っても隣なんだけれども、それでも深夜の街は静まり返って特別な夜のように思えた。
ピンポーン。
シャッターが閉まっている隣の建物の呼び鈴を押すと、フリオさんが下りてきてシャッターを開けてくれた。
「ついに、ですか……」
言うと、フリオさんはいつもと変わらぬ感じで「いい感じやったよ」と言った。
死んでいくのにいい感じと言うのも妙なものだが、なんとなく手厚く見送られた感が伝わってきた。
奥の部屋に敷かれた毛布の上に寝かされたトトちゃんは、昨夜と何も変わらないように見えたが、よく見ると昨夜は微かに上下していたお腹あたりもピタッと静止していて、どこも微動だにしないのだった。毛並みに触れてみると、ほんのりとまだ温かみが残っていた。
「こんなによくしてもらえてよかったね」
「幸せだったねえ、トトちゃん」
トトちゃんに七日、フリオさんになのかよくわからないけれども、私と有希は交互に言った。
人間でいえばお通夜だ。犬のお通夜なんて未だ体験したことがない。
「オレも動物が死んで行くのを看取ったのははじめてや。そもそも犬を飼ったのもはじめてやからなあ!」
十四年もトトちゃんの世話をしてきたフリオさんはそう言った。
五歳くらいで迷い込んできたトトちゃんは、おそらく今年十九歳。人間でいえば九十二歳くらいだそうだ。
「これって寿命?」
有希がとぼけたことを訊いた。
「そうに決まってるでしょ?こないだから大往生ってみんなが言ってたでしょ?」
犬に大往生なんて言葉が当てはまるのかわからないけれども、まさしくこれは大往生だ。病気にもならず、命のぎりぎりまで生きれる犬が、世界にどのくらいいるのだろうか? トトちゃんはそうした数少ない大往生犬の一人に間違いはない。
「オレの商売が下り坂になった時にな、トトのおかげで救われたんよ」
トトにまつわる思い出を皆が語り出す。
「不安で不安で夜中に起きて椅子に座ってたらな、いつもは朝まで起きないこいつが起きてきてオレのとこに来るんや。わかるんやなぁ、こんな犬でも」
「みんなで愛犬連れて旅行したのも懐かしいなぁ」
「この子、私が見つけたんよ。そこの坂道のところを向こうからとぼとぼ歩いてきててね……」
ここにいるフリオさん、えっちゃん、有希、私の四人がそれぞれにトトの思い出を持っている。
明日になればトトを愛したもっとたくさんの人たちがお見舞いに訪れるだろう。
「私が死んでも、悲しんでくれる人はこんなにいないと思うなぁ」
私はついそう言った。
「そんなことないよ、少なくともここにいる人くらいは……」
「たったそれだけ?」
我が家の愛犬も今年十三歳。ワイヤーフォックステリアという犬種の平均寿命は十四歳だと聞く。だとしたらあと一年しかない。そう思うときゅんと胸が苦しくなる。まだまだ元気だとはいえ、愛犬の衰えは最近目に見えてきている。
「偲ぶ会、するからみんな来てや」
フリオさんはそう言って、冷たくなってきたトトの身体に生きているときと同じように何度もキスをした。
了
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第七百十二話_short 隠し芸 [ordinary day(日常)]
いままでそんな催しがあった覚えがないのだが、今年は社員やその家族に向けた慰労の会が開催されることになった。只の宴会とかではなく、ホテルの催し会場を借り切ってのいわば文化祭みたいな催しだ。
従業員の有志が焼きそばやホットドッグの屋台を出し、ファミリーの子供たちに向けた射的コーナーやくじ引き屋台もあった。従業員は家族や友人を引き連れて訪れ、どうぞ和やかなひと時をお過ごしくださいといった趣旨らしい。
それにいてもわが社はこんなことをするほど儲かっていたっけ? 昨年度は確か揺り上げが足りないのでと一斉告知があって、全員減給されるような事態になったはずだ。今年度も大いに儲かっているというような話は聞いたこともない。それなのに、こんな催しっていったいどういうことなんだ? こんな余剰金があるのならむしろお金で返してほしいのに。
会場にはステージがあって、なにか見世物があるのだろうなと思っていたら、案の定司会者が登場して言った。
「さて、みなさん、本日はお忙しい中をお運びいただきましてありがとうございます……」
ひとしきり挨拶をしてから司会者が言った。
「それでは、本日は”あなたの知らない社内のあんなこと”と銘うちまして、従業員の皆さまが楽しい見世物を拾うしてくれます!」
それから順次、従業員が隠し芸というようなものを披露しはじめた。
最初に出てきたのはロックバンドだ。派手な革ジャンを着た大男がバンド演奏をバックに歌いはじめた。
「あれ、誰だ?」
思わず声を出すと隣にいた同僚が言った。
「あれ、営業部の鬼河原部長ですよ」
へぇー! あの禿頭が金髪かつらを被ってボーカル? すげー!
次に出てきたのは黒ずくめのSM女王みたいな姿のマジシャン。
「あれは誰?」
「あれは、経理のお局さん、浜崎女史ですよ」
なんてこった。ぶよぶよの身体を革の中に押し込んで手品をするが、鳩は逃げるわ、カードはばら撒くわ、猿は言うことをきかないわという悲惨なショーだった。
その後も雑技団みたいなアクロバットやダンス、コーラス、漫才など、よくもまあ社内にこんなに多彩な人材がいたものだ、これなら芸能プロダクションだってできるんじゃないのと思うほどの出し物が披露されていよいよ佳境にというところで再び士会が登場した。
「さて、時が経つのは早いもので、”あなたの知らない社内のあんなこと”も最後の出し物となりました。では、最後は漫談の山田小路タロマロさんです! はりきってどうぞ!」
禿頭にお下げを付けた、派手なジャケットの差長が現れた。
「はぁい、レディスアンドジェントルマン、おじいちゃんおばあちゃん! 本日は金もないのにようこそいらっしゃいました!」
相手が社長だと丸わかりなだけに、笑うべきなのか、笑ってはいけないのかよくわからない。
「あれからはや四十年、わが社も大きくなりました。大きくなりすぎてもう手も足も動かせない? 恐竜じゃあるまいし。はてさて、本日は”あなたの知らない社内のあんなこと”でございますな。いやいや一部知ってる人もいるかもですが、実はわが社にはもうお金がありません! 今日、この場で、この催しで、ぜーんぶ使い切ってしまいました! ということで、本日でわが社は解散ということで、そのためにみなさんにもお集まりいただき……」
ジョークなのか本気なのかわからない話は延々続き、呆れた社員が全員帰ってしまうまで終わることはなかった。
了
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第六百八十七話_short 恋するお年頃 [ordinary day(日常)]
満雄は音楽家になりたいと思っていた。音楽家と言ってもクラシックではない。俗にいうシンガーソングライターとかそういうのだ。音楽はとても好きでギターはある程度奏でることができると自負しているのだが、残念ながら自分には文才というものがかけていると思っていた。だから歌詞を書くことのハードルが高くて、シンガーはできてもソングライターの部分が難しいなあとずっと思ってきたのだ。ギターを抱えればメロディーは作れるが、歌詞だけは作りあぐねてきたのだ。
ところがそんな満雄にちょっとした転機が訪れた。毎日顔を合わせる愛という名の娘に恋をしたのだ。恋は男を詩人にするとはよく言ったものだ。愛への想いを綴るだけでそれが詩のようなものになった。
♪君が好きだ、君が好き。
君を思うだけで胸の中は熱いものでいっぱいになる。
君が好きだ、君が好き。
どうして君はここにいるの?
たぶん僕と出会うために、君は生まれてきたんだよ。
だから僕はせいいっぱい、君のことを思い続けるんだ。
愛を知る。愛がある。愛してる。愛こぼれる。
愛がすべて。愛は素敵。愛に生きる。愛に溺れる。
そう、僕には君への愛がある~
満雄は一気にこんな詩を書きあげてメロディーをつけ、恥ずかしげもなく愛の前で披露した。
目の前で満雄に歌で愛の告白をされた当の愛だが、仕事上いやな顔はできない。満雄が歌い終えるのを待ってから、少し恥ずかしそうな顔をして言った。
「とても素敵な歌ですね。私のためだなんて、うれしいわ。ありがとう。またいい歌ができたら聞かせてね、おじいちゃん」
介護士の愛はそう言って満雄の部屋を離れ、次の要介護老人が待つ部屋に向かった。
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第六百八十話_short 感覚過敏 [ordinary day(日常)]
なんというか、近頃においが気になるのである。もともとにおいとには敏感な方ではあったが、それが一層過敏になっているような感じ。幸か不幸か敏感になっているのはすべてのにおいに関してではない。食卓のにおいや花のにおいなど、いいにおいに関しては今までと変わらないし、ごみのにおいや腐ったにおいも今までとそう変わらないようだ。ただ、人の体臭、とりわけフケのにおいに過敏になっているのだと気づいた。
きっと夏場で、今年はとりわけ暑いから、世間のみんなの発汗量が増えているためににおいが強くなっているのだろう、最初はそう思った。しかしすれ違う人、追い越す人、傍にいる人、すべての人の頭がにおうというのはどうにもおかしいなと思いはじめた。きっと昨夜か今朝かにシャンプーしたばかりというような美女の頭皮さえにおう。ふつうはこういう場合はシャンプーの香りがしていいはずなのだが。ところがさっきも言ったようにいいにおいに関しては今まで通りで、頭皮のにおいにだけ敏感になっているらしいのだ。
頭皮のにおい、つまりはフケのにおいというものはもちろん快いものではない。自分自身の頭皮については実はよくわからないのだが……においというものは四六時中嗅いでいると慣れて麻痺してしまうそうだから……他人とすれ違いざまに漂う頭皮のにおいはたまらなく不快だ。
なぜそんなことになったのかはまるでわからないが、理由がなんであれ事実は事実なのだ。
早く夏が終わってしまえ。そうすれば人々の発汗量も減って、においもマシになるはずだ。自分自身の感覚過敏を治す方法などわからないから、ひたすらそう願い続けた。
と、秋も近付いてきた頃、ようやくあのいやなにおいが少なくなっていることに気づいた。想像通りに暑さが和らいで人々の発汗量が減ったからなのか、はたまた私自身の臭感覚に変化が起こったのか、それはやはりわからない。とにかく頭皮のにおいが気にならなくなってきたのだ。
ようやく平穏に戻れたのだなと安心して寝床に入ったある日、今度は別の感覚が過敏になっていることに気づいた。
いつになくやかましいのだ。いや、道路の音とか生活音とかは今までどおりなのだが。
チロリロリロ、チロリロリロ。
リーリーリー。リーリーリー。
そう、虫の声だ。どこから聞こえてくるのか、秋の虫たちの声が一斉に耳になだれ込んできて頭の中で響いている。これは困った。やかましくて眠れないのだ。どうやら臭覚から聴覚へと、過敏神経が移ってしまったようなのだ。
了
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