第六百六十九話_short 熟年のときめき [ordinary day(日常)]
中年、というよりももはや熟年にさしかかっているあなたは最近、ときめくことがあるでしょうか。
山口敏子五十八歳。この歳になってもう恋なんてできないと思っていた。かつて大恋愛の末に一緒になった夫には先立たれ、子供たちも独り立ちしたいま、独り身の寂しさを感じはじめていた矢先、職場に配属されてきた課長が自分と同じように奥さんに先立たれた身の上であることを知って、妙に親近感を感じたのが始まりだった。
「山口さんも旦那さんを亡くされたんだって?」
誰に聞いたのか、暑気払いの職場集会で話しかけられ、なんだか驚いてしまった。仕事以外で男性と話すのはずいぶんと久しぶりだったからだ。
「あ、課長も同じような経験をされたって伺いました」
同じ境遇を持った者同士の話は弾み、その距離はすぐに短いものとなる。しかしだからと言って長い間専業主婦として家に閉じこもり続けてきた敏子は恋愛の仕方なんて忘れてしまっていて、自分から彼に接近することなどできなかった。また課長も同じような理由からなのだろうか、それ以後特に近づいてくる気配もなかった。
最近なんだか胸の中がぞわぞわするわ。
ある日敏子は自分の中の変化に気がついた。課長の姿を見るたびにドキドキするのだ。いや、課長の姿が見えない時でもみょうにむなさわぎというか、胸の中が踊っているような、なんか苦しい感じがするのだ。
これってもしかして、ときめき? 私、恋しちゃったの? 恋ってこんなに苦しくなるものだったかしら? 一人でそう考えては頰が赤らむのを感じた。
パートタイムの同僚に言われた。
「あら? 山口さん、それってホットショットじゃない? ほら、更年期の」
そう言われてしまうと反発したくなる。違うわよ、これは恋のときめきなの! 言いたいけれども、いい歳をしてそんなことは口に出せない。
「うん、この頃ね、胸がドキドキすることもあるの」
そう言ってやると、逆に冷やかしてきた。
「ま。それってもしかして、トキメキ? うふふ、冗談よ。でも、マジ、一度病院行ってみたほうがいいわよ。念のために」
彼女の言葉に従ったわけではないが、更年期という言葉が引っかかって、婦人科で軽く検診を受けることにした。
診断結果を見ながら医師が言う。
「山口さん、脈が飛びますね……」
医師の言葉が正しいとは限らないが、私のときめきはやはり、不整脈だった。
了
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