第七百四十六話_short うちの夫はリビングデッド [allegory(寓意)]
昨夜あたりから夫の哲生が咳をするようになっていた。
「あらぁ、いやだ。風邪でもひいたの?」
「いいや、大丈夫だ。風邪じゃない」
このところ毎晩疲れた顔で帰宅してくる夫は、朝になると「ああいやだ。会社休みたい」等と言うようになっていた。残業続きで疲れが出ているのかもしれない。身体が弱っているところに風邪菌は新入しやすいらしいから、やっぱり風邪をひいたんじゃないかしらと美沙子は思った。
「なんかお疲れ気味でしょ? ゆっくり休まないとだめよ」
夫を気遣って言うと、情けない答えが帰ってきた。
「いや、疲れたっていうか、つまらんのだ。あんな会社もう辞めてしまいたいな」
「なに言ってるの。あなたが働いてくれないと生活していけないじゃないの」
これまでも何度か同じようなやり取りがあったのだが、夫は今の仕事は自分に向いていないのだという。このままいまの仕事を続けていては人間としてダメになるなどと言いだす始末だった。それでも夜が明けると少しは気持ちが回復するようで、いやいやながら出社していく。一日働いてまたつらそうな顔をして戻ってくるのだ。
また朝になった。
「ゲホッ、ゲボッ」
隣のベッドで夫が咳をしていた。
「ほらぁ、やっぱり風邪じゃないの? 大丈夫? 朝よ」
声をかけても夫は布団から出てこない。
「遅刻しちゃうよ」
むりやり掛け布団を剥がすと、夫は「ぐあお!」と恐ろしい叫び声を上げて布団を奪い返した。
「もう! 知らないよ!」
美沙子は言い捨てて洗面に向かった。
キッチンで朝食をつくっていると、ミシミシっと廊下をゆっくり歩く音が聞こえた。覗くと夫がゆっくりと歩いてくるところだった。その歩みは実にのろまでまるで死人のようだ。
キッチンにやってきた夫の顔は色がなく、どんよりとした瞳をこちらに向けて吠えた。
「ぐおう!」
「なにふざけてるのよ、急がないともう、八時になるよ!」
美沙子は怒鳴り返したが、聴こえたのか聴こえないのか、夫はまた吠えた。
「ぐあう! ぐるるるる」
風邪かと思ったら、そうじゃなくってどうやらゾンビのようだ。
「あなたいやだ。もしかして誰かにうつされたんじゃないの、ゾンビ」
言うと図星だったようで、夫は動きを止めて答えた。
「がるるるるる……じづは、そのようだ……」
もう、本当に困った人。ゾンビなんかになっちゃってどうするつもりなの?
「いやだもう! 私にうつさないでくれる? 私そんなのになりたくないから」
お医者に連れていくべきかしら。それとも警察? ゾンビって死んだってこと? いやいや、夫はここに生きているわ。
ちょっと不安になって夫に訊ねた。
「ねぇ、今日は会社休む? 会社にはゾンビになりましたって電話する?」
ゾンビになったら解雇されちゃうのかしら? いやいやそんなくらいで解雇されたら訴えてやるわ。人権問題だもの。
「あなた、ゾンビになったからってクビになんかならないでしょうね?」
「がるる……オレもはじめてだから、わがらん・・・・・・がるる」
近所でゾンビになったって人はいないから、訊くこともできないし……困ったわ。
「ねぇ、誰にうつされたのよ」
夫に聞いてみたが、よくわからないらしい。夫の会社では最近多くの社員がゾンビ化しはじめていて、そのうちの誰かに噛まれたということもないし、接触すらしていないらしい。
「じゃぁ、うつされたんじゃないのかもってこと?」
映画の中ではゾンビに噛まれたらゾンビになってしまうことになっているが、実はそうではないのかもしれない。だいたい会社でゾンビ化する社員が増えてるなんて……映画の中のゾンビだったらみんな噛まれて一気にみんながゾンビになってしまうはずなのに。
「実際のゾンビっていうのはな……がるる……映画とは違うぐるる」
噛まれて鳴るんじゃなくって、まさに生ける屍としてのゾンビ化が起きているという。働く意欲がなくなったり、何のために働いているのかと疑問を持ちはじめたり、意欲はあったのに会社の方針なんかでねじ曲げられて行き場を失ってしまったり、そうした社員が生ける屍化、つまりゾンビ化するのだと、夫は唸り声をはさみながら説明した。
「なんだかよくわからないけど……それじゃ、半分は会社のせいだってことね。だったら正々堂々としてればいいわ。さ、早く着替えて、会社に行きなさいよ。それで、ゾンビ休暇とかゾンビ手当とかどうなってるのか、聞いてらっしゃい!」
美沙子はのろのろしている夫を手伝って、口にトーストをほうりこみ、玄関先で見送った。
もう、ほんとに。いまの社会はどうなってるのかしら。生きたままゾンビになっちゃうなんて、とんでもない世界になってしまったものだわ。そう思いながら美沙子は洗濯物に取り掛かった。
了
↓このアイコンをクリックしてくれると、とてもウレシイm(_ _)m
コメント 0