パズル [allegory(寓意)]
スマートフォンというものが普及し、街角に立つ人や電車の中でも、ほとんどの人がスマートフォンを覗き込んで待ち時間を過ごしている。この人たちがスマートフォンを覗き込んで何をしているのかというと、メールでもインターネットのブラウジングでもなく、間違いなくゲームだ。時間つぶしにゲームを楽しんでいるのだ。
スマホゲームにもいろいろあるらしいが、大半は同じ形のマークを3つ以上合わせると消せるというタイプのパズルゲームだ。私もそのようなゲームの一つにはまってしまっているのだが、これがなかなかうまくいかない。 ゲームの方法は極めてシンプルで、画面の中に次々とランダムに現れる数種類の形を指先で動かして、三つ以上が並ぶと消すことができる。これを繰り返して画面内のマークを全て消し去ると一面が終わって、次のステージに進むことができるのだ。ところがこれを一定の時間内で、あるいは一定の手持ち回数でしなければならないので、なかなか次のステージに進めない。
なんとか一面をクリアして次のステージに進んだところで 似たような画面が出てきて、また同じことを繰り返すだけで、いったいこれのどこが面白いのだと思うのだが、一面をクリアできないというだけで妙に意地になり、なんとか画面の マークを一掃しようとこの無意味な作業を繰り返してしまうのだ。
無意味なと書いたが、パズルゲームで行うことは実に意味がない。全面クリアしたところで、お金になるわけでも、何かを学べるわけでもなく、仕事の足しにも人生が豊かに あるわけでもない。本当にまったく無意味な時間つぶしなのだ。
最近、これはなんだか人生に似ていることに気がついた。将棋やチェスなら、頭脳を駆使して戦略的に考えることによって、勝利を導くことができる。ところがパズルゲームは、まったくランダムにマークが現れるので、現れた手によっては、いくら考えたところで、どんなに努力したところで、ダメな時はダメなのだ。逆に、偶然良い手が現れると、何にも考えずに簡単にクリアできてしまう。最初にランダムに現れた画面次第で成否が決まるのだ。
学校とか、仕事とか、スポーツや、趣味の何かや、結婚でさえ、このゲームみたいなものではないだろうか? 人生の何かは、一生懸命頑張ればなんとかなると信じて努力する。しかし、それで成功に導かれることもあるけれども、そうじゃないことも往往にしてある。そのとき、努力が足りなかったと考えるのだが、本当にそうだろうか? そもそも最初に配られた手札、あるいは途中で手に入った配札がよろしくないからうまくいかないのではないだろうか。運良く、ランダムに手に入った手札がよければ成功できるのではないかしらん?
周りの人たちを見てごらん。歴史上の人物のストーリーを思い出してごらん。どうやら努力よりも運命、つまりランダムに配られた手札によるところが大きいような気がしないか? 素晴らしい手札を手に入れることこそが戦略だなんて、それは詭弁じゃないか?だって運命の手札はランダムな采配であって、努力によって手に入るものなんてほとんどないんだから。運も実力のうちなんて、偶然運を手にした人の戯言だ。
すでに何度も同じ場面を繰り返して失敗した。今度こそと意地になって、新たな場面を迎えて、今度こそはうまくいきそうな気がした。これをクリアできれば、次のステージに進むことができるはずだ。しかし……。いいと思った采配はどうやら……。 またしても私の中には怨みの念がわき起こる。テレビ画面に映し出された「株価暴落」という文字を見ながら。
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