第七百四十九話_short わがままなともだち [literary(文学)]
犬というものは従順な生き物だと思っていた。いや、実際他の誰かが連れている犬たちは揃って飼い主にしたがって歩いているし、自転車に乗った飼い主の横をわき目も振らずに颯爽と駆けていくような犬も見かける。
そういう犬を見ると、ははぁ、賢いものだなといつも感心させられる。
ところがうちの犬ときたら私の横を歩くどころか、常に勝手な方向に向かおうとしたり、歩いている最中に唐突に止まったり、まるで自分中心なのだ。最初はしつけの問題だと思っていた。だから言うことを聞かないとリードをくいっと引っ張って命令通りに歩かそうとしたりもした。これは犬のしつけの本に書いてあったやりかただったのだ。
ある程度はしつけができたようにも思ったが、それでもまったく言うことを聞かないことも多かった。その上、老犬になってくるとそのわがままぶりにはさらに拍車がかかって、今日はもう歩きたくない! っと言わん画ばかりに道端に座り込んでしまうことも多くなったのだ。
そうなったとき、ついリードをぐいぐい引っ張って先に進もうとする癖がついてしまった。愛犬はお尻を道路につけて全身に力を込めて逆らおうとする。中型犬なのでこちらの方が力が強い、だからついついぐいぐい引っ張って散歩するような格好になる。
ある時まったく知らない通りがかりのサラリーマンが私たちを追い抜きながら「ちょっとひっぱりすぎなんじゃない?」と注意されたことがあった。一瞬「え?」と思ったが、確かにそういう風に見られているのだなぁとすぐに思った。まるで虐待しているかのように思われているのだ。だが、実際のところは、私ではなく、犬の方が引っ張っていることも多いのだ。
ここまで読んで、「ああ、この飼い主はわかっていないな」と思われてしまったかもしれない。だけど、うちの犬種がワイヤー・フォックス・テリアという犬種であることを知ったならば、納得するはずだ。少なくともワイヤー犬のことを多少知っている人なら、頷きながら「ああ、その犬種はわがままなんだよね」というに違いない。
ワイヤー・フォックス・テリアを飼う時に、この犬種はとても人間っぽいのが特徴だという説明書きを読んだ。つまり人間並みに自己主張する犬種だというのだ。
だからいやかといえば、ワイヤーのオーナーは口をそろえて、「いいや、そこがいいんだよ」と言う。他の犬が従順過ぎるのに対して、オレがワタシがと主張するところが可愛いというわけだ。
そういう癖のある犬だとわかれば、もはやしつけがどうこうというわけではないのだが、問題が起きやすいのも確かなのだ。
公園を散歩していると、初老のご婦人が近寄ってきてしげしげと我が愛犬を見つめる。そんなに珍しいのかなと思っていると、
「うちもね、同じ犬を飼っていたんですよ」
なるほど。同じ犬を飼っていたとなると懐かしく思うのは当たり前だ。しかも、この犬種はそれほど多くは見かけないのだし。
「あら、そうですか。もう今は飼っていないんですか?」
そう訊ねると、ご婦人の目から不意に涙がこぼれ落ちた。
「交通事故に遭いましてね……リードをしっかり持っていた筈なのに、急に引っ張るものだから私の手をするりとすり抜けてしまって、気がついたら道路に飛び出して……轢かれてしまいました」
愛犬を失うということだけでも悲しいのに、事故で失った、しかも飼い主の過失的なところもあるとなれば、辛さは増幅することだろう。
犬の主張を聞いてやることも必要なのかもしれないが、特にワイヤー・フォックス・テリアの場合は、リードはまさに命綱なのだということを、私は改めて感じたのだった。
了
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