第七百五十四話_short 大切なこと [ordinary day(日常)]
「なぁ、俺たちにとっていちばん大切なことって、なんだと思ってる?」
亜理紗は牛蒡の千切りに取り掛かっていたのだが、その手を止めることなく切り続けた。俊彦がきんぴらが食べたいというので、得意料理の一つであるきんぴら牛蒡だが、より繊細な味にしたいからと細かい千切りに挑戦していたのだ。
「聞こえた? 聞こえてる?」
俊彦はスープの鍋をかきまぜながらもう一度聞いた。亜理紗はなにかに夢中になると何も耳に入らなくなることがあるからだ。
「え? なに? 大切なこと? なによ、藪から棒に」
俊彦はちょっとドキッとした。それがどんなことであろうと、邪魔をされて怒り出したことが亜理紗には何度もあるからだ。そんなことで起こらなくてもいいだろうと思うのだが、気分を害されて起こらない方がおかしいというのが亜理紗の言い分だった。
食事の準備はおおむね亜理紗の仕事ということになっているが、気が向いたときには俊彦も一緒になって作る。主導権は亜理紗にあるのだけれども、そうしておいた方がなにかと楽だからと俊彦は思っている。
「藪から棒っていうか、猫に小判っていうか……」
ちょっと生まれた緊張感をほぐそうと、俊彦はなにか冗談を言おうとしたのだが、どうもうまくいかなかった。
「ほら、たとえばいまみたいに、些細なことでイラッとすることがあるだろう?」
あんまりずけずけと言い放つとまずい結果になるので、俊彦はできるだけやわらかい口調で言ったつもりなのだが。
「いま? 誰かイラッとなんかした? そういうことって……よくある?」
わかって言っているのか、あるいは本当に思い当たらないのか、十年連れ添ったいまでも、亜理紗はちょっとつかみづらいところがある。 それに、おおよそ感情的になるのは亜理紗なんだけれども、感情を露わに怒り出した原因を訊ねると、たいていはなんだったかわからないような些細なことなのだ。
「いや、よくあるっていうか、ほら、俺たち、時々喧嘩するじゃない」
「ああ~喧嘩ねえ。するわよねぇ」
喧嘩といってもたいていは亜理紗がひとり怒り出して、俊彦はただおろおろするだけのことなのだが。
「そりゃあ私だって不機嫌なときだってあるわよ~それでなに?」
「だからさ、亜理紗が不機嫌になってしまうことがあるっていうのはわかるけれども、それって大切なことなんだろうか? もっと大切なことがあるんじゃあないかと、俺は思うんだけど」
牛蒡を切る手が止まった。亜理紗は包丁を右手に握ったまま俊彦の方に向き直った。
「あら? 自分の感情以上に大切なものってあるのかしら? 私はまずは心安らかであることが大事だと思ってるわ」
自分の気持ちが安らかでありたいと願うのは俺だって同じだ。だがその気持ちが乱されたから怒るというのなら、そのときの俺の心はどうなるんだ? 二人揃って心安らかでいたいじゃないか。
俊彦はそう思ったけれども口には出さなかった。女王様の心を一番に考えておかないと大変なことになってしまうかもしれないからだ。
「そうだな。いちばん大切なこと、それは亜理紗の心が安らかであることだよね」
そう言うしかなかった。
了
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